たばともデータ
「三原大洋」で本塁打を打った選手第1弾になります。
入団年に31本塁打を打って本塁打王に輝き新人王を獲得。その後も大洋の長距離砲として活躍した桑田武の全本塁打一覧、今回は1959年から1963年を見てみます。
kazkさんのリクエストで桑田武、全本塁打一覧を見てみます。
1959年から63年まで。
※ダブル欄の①、②は第一、第二試合で同一カード・先攻・後攻も同じ通常のダブルヘッダー、△1、△2は第一、第二試合で対戦カードが違うまたは、同一カードで先攻・後攻が違うことでの変則ダブルヘッダー。
第一号は広島・拝藤宣雄からプロ入り5打席目での2ラン本塁打。この時の試合は、1回表に桑田が先制の2ラン本塁打、4回表にも2ラン本塁打を放ったが、1回裏には3点を献上、3回裏にも2点を与え、さらに5回裏にも1点を与えてリードを許していたが、7回表一死満塁から沖山光利の2点タイムリー安打で追いついた。
しかしその裏に森永勝治の犠飛で再び勝ち越され、その後を4番手備前喜夫に締められ6対7で惜しくも敗れた。
1960年6月29日下関市営球場で行なわれた対巨人戦ダブル第二試合、第一試合にサヨナラ勝ちして気勢が上がっていたが、2回表先発島田源太郎が巨人打線に捕まり、2番手権藤正利が与那嶺要に3ラン本塁打を打たれるなどで一挙5点を失いビハインドでのスタート。しかし大洋も小刻みに得点し、4対6と2点差に追い詰めて迎えた8回裏2,3塁から、鈴木武のタイムリー安打で同点に追いつき延長戦へ。そして延長12回裏桑田が4番手義原武敏からサヨナラ本塁打を放ち、7対6とダブルで連勝し巨人に代わって2位へ浮上した。
1985~1994年の全本塁打一覧は、こちらで
桑田武、全本塁打一覧(後編・1964~1968)
本塁打大全、全登板成績リクエストこちらから
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チーム別シーズン投手成績バックナンバー 1955~1969
チーム別シーズン投手成績バックナンバー 1970~1979
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広尾晃、3冊目の本が出ました。
1959年から63年まで。
※ダブル欄の①、②は第一、第二試合で同一カード・先攻・後攻も同じ通常のダブルヘッダー、△1、△2は第一、第二試合で対戦カードが違うまたは、同一カードで先攻・後攻が違うことでの変則ダブルヘッダー。
第一号は広島・拝藤宣雄からプロ入り5打席目での2ラン本塁打。この時の試合は、1回表に桑田が先制の2ラン本塁打、4回表にも2ラン本塁打を放ったが、1回裏には3点を献上、3回裏にも2点を与え、さらに5回裏にも1点を与えてリードを許していたが、7回表一死満塁から沖山光利の2点タイムリー安打で追いついた。
しかしその裏に森永勝治の犠飛で再び勝ち越され、その後を4番手備前喜夫に締められ6対7で惜しくも敗れた。
1960年6月29日下関市営球場で行なわれた対巨人戦ダブル第二試合、第一試合にサヨナラ勝ちして気勢が上がっていたが、2回表先発島田源太郎が巨人打線に捕まり、2番手権藤正利が与那嶺要に3ラン本塁打を打たれるなどで一挙5点を失いビハインドでのスタート。しかし大洋も小刻みに得点し、4対6と2点差に追い詰めて迎えた8回裏2,3塁から、鈴木武のタイムリー安打で同点に追いつき延長戦へ。そして延長12回裏桑田が4番手義原武敏からサヨナラ本塁打を放ち、7対6とダブルで連勝し巨人に代わって2位へ浮上した。
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広尾晃、3冊目の本が出ました。
1960年の三原マジックはすでにセーバーメトリシャンの道作さんが飛ばぬボールを使った結果だと喝破されていましたが、それが証明された格好です。
何しろ19歳のルーキーで31本打った男が翌年16本なのだからまともではありません。ただこの表で1年目16本打った川崎で2年目はわずか2本。ビジター及び地方球場では1年目15本、2年目14本で殆ど差がありません。
これは明らかに川崎で飛ばぬ工夫をした結果でしょう。ここまで露骨だったとは…この年桑田は3塁打と2塁打が例年に比べて相当多くなってます。これも傍証でしたが更にこの年だけ打率が3割になってます。
おそらく三原監督は相当因果を含ませてこの年桑田に対したのだと思います。狭い川崎で撃ちあいでは打つ手が無いから得点はヘルが失点も減らし、守り勝つ野球をする、その上で秋山中心の投手陣で彼をスーパーリリーバーとして回転させ弱体な先発陣を回しきる、そういう野球だったのでしょう。
この年は優勝勝率が格段に低く混戦に持ち込んで勝つという戦略が有効だったのだと思います。最大の敵ジャイアンツはこの年堀本1人の投手陣です。幸運な側面は相当あったと思いますがこういう工夫は実を結ぶのだと思います。
その後三原監督はこういう奇策を捨てて本アク的な強化に乗り出します。64年までのホエールズは変動は激しい物の相当な強豪です。村山や王のブレークがなければどうなったかわからぬ時代です。
小生はこの魔術師の航跡をずっとたどってるのですがあの時代によくぞここまでと思うことばかりです。
時々想像するのですが魔術師がいまWBCの監督をやって米国に対するならばどういう野球をやっただろうかと想像します。何しろ短期決戦の強者であることは論を待たないんですから・・・