巨人で言えば川上哲治に相当する大選手。投手としても打者としても傑出した存在だった。
【キャリア】
東京都品川区出身。第二日野高等小学校から36年名古屋軍に入団。投手として活躍。43年応召、復員後一塁手に転向、46年ゴールドスター移籍、49年中日復帰。58年引退。名古屋コーチ、中日コーチ、監督(1964-67)。77年殿堂入り、同年死去。
【タイトル、それに準ずる記録】
投手
・防御率10傑入り2・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上5シーズン
ノーヒットノーラン1
打者
●打点王1 ●首位打者1 ○最高長打率1
・打撃10傑入り7・OPS.900以上3 ・RC100以上0 規定打席以上10シーズン
ベストナイン3 オールスター出場5回
【論評】
16歳で試合に出場。すでに6尺(180cm)豊かな偉丈夫であり、球威は十分だった。2年目には主戦級となるが、気が弱く、40年に20勝を挙げたものの平凡な成績に終始した。43年に応召し、復員するも肩を痛めて投手は断念、打者に専念したところ素質が開花し、リーグ屈指の強打者として活躍した。確実性も飛距離もあり、投手陣の難敵だった。特に満塁ではめっぽう強く、1950年には5本の満塁本塁打を打った。20勝と40本塁打を打ったNPB唯一の選手。
引退してからOB戦などの映像を何度か見たが、大きな体に似つかわしくない物静かな紳士だった。
初期の中日は石丸進、服部受、大沢伸夫など投打に活躍した選手が多い。選手の絶対数が足りない中での苦肉の策でもあっただろうが、西沢が戦前から打者に専念していたら2000本安打を軽く超えたと思われる。選手生活晩年は指導者としての比率も高くなり、長嶋茂雄デビューの年に余力を残しながら引退した。背番号15は永久欠番。
監督としてもAクラスを3度記録したが、巨人V9の時期であり、結果は残せなかった。
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ラビットボール廃止後の1952年に打率とRC27が自己最高を記録しているのも目立ちますが、この年が文句なしのベストシーズンに。最後の4年間は長打と四球が激減、威圧感は無くなったものの堅実な打撃で最終年までレギュラーとして活躍しています。1958年は川上・藤村・小鶴・西沢と戦前派の名選手が一斉に引退した年ですが、やはりお互いに意識しあっていたのかも。
西沢引退の翌年に入れ替わるように次代の主力打者の江藤が入団。高等小学校出身で物静かな西沢に対して、江藤は実業団出身で闘志をむき出しにするタイプという対比も面白いです。