たばともさんデータ
たばともさんデータを加工した。1965年、南海、野村克也の戦後初の三冠王への道のりを、最大のライバルだった阪急、ダリル・スペンサーとの比較で試合ごとに追いかけた。
野村克也
たばともさんデータを加工した。1965年、南海、野村克也の戦後初の三冠王への道のりを、最大のライバルだった阪急、ダリル・スペンサーとの比較で試合ごとに追いかけた。
野村克也
Bは、打順。太字はリード。
この年打率、本塁打でスペンサーを、打点で張本、ハドリを振り切って三冠王になった。
30歳のノムさんですが、東京、近鉄、阪急と下位チームから良く打ってます。
本塁打は、東京、近鉄から半分以上稼ぎ、小山から6本、徳久から4本打ってます。
一方、東映・尾崎、阪急・米田、足立からは0本でした。
表を作ってみて最初に思ったのは、当時のペナントレースの日程が、かなり間が開いていること。
4日、5日と間隔があいていることも珍しくない。これは、最初からダブルヘッダーが組まれているからだろう。
この時期まで、稲尾和久や杉浦忠など、30勝を優に超える勝ち星を挙げる大投手がたくさんでていた。
そういう選手たちは過酷な登板をこなしてはいたが、シーズン中に意外に長い休みがあったのも事実なのだ。 今よりものんびりした一面があったということになろうか。
スペンサーは打点ではオールスター前に野村に大差をつけられていたし、打率も7月末には水をあけられたが、本塁打は10月に入って2本差に接近した。
スペンサーは8/15の東京戦では満塁で歩かされるなど4敬遠四球をくらっている。なかなか勝負されないようになっていた。
10/2からの阪急、南海戦をご覧いただきたい。3試合で野村は3打数、スペンサーは5打数しか勝負してもらっていない。 そんな中で、スペンサーは10/3、スタンカから野村に2本差に迫る38号を打っている。
ここ5試合で3本塁打。 いよいよ尻に火が付いた野村克也。
ところが、スペンサーは10/5の西鉄戦の当日、バイクに乗って阪急電車の駅に向かう途次、神戸市東灘区の三叉路で、軽自動車と衝突。右足2カ所を骨折、全治2カ月の重傷を負った。
デッドヒートはあっけなく幕切れになったのだ。
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この年打率、本塁打でスペンサーを、打点で張本、ハドリを振り切って三冠王になった。
30歳のノムさんですが、東京、近鉄、阪急と下位チームから良く打ってます。
本塁打は、東京、近鉄から半分以上稼ぎ、小山から6本、徳久から4本打ってます。
一方、東映・尾崎、阪急・米田、足立からは0本でした。
表を作ってみて最初に思ったのは、当時のペナントレースの日程が、かなり間が開いていること。
4日、5日と間隔があいていることも珍しくない。これは、最初からダブルヘッダーが組まれているからだろう。
この時期まで、稲尾和久や杉浦忠など、30勝を優に超える勝ち星を挙げる大投手がたくさんでていた。
そういう選手たちは過酷な登板をこなしてはいたが、シーズン中に意外に長い休みがあったのも事実なのだ。 今よりものんびりした一面があったということになろうか。
スペンサーは打点ではオールスター前に野村に大差をつけられていたし、打率も7月末には水をあけられたが、本塁打は10月に入って2本差に接近した。
スペンサーは8/15の東京戦では満塁で歩かされるなど4敬遠四球をくらっている。なかなか勝負されないようになっていた。
10/2からの阪急、南海戦をご覧いただきたい。3試合で野村は3打数、スペンサーは5打数しか勝負してもらっていない。 そんな中で、スペンサーは10/3、スタンカから野村に2本差に迫る38号を打っている。
ここ5試合で3本塁打。 いよいよ尻に火が付いた野村克也。
ところが、スペンサーは10/5の西鉄戦の当日、バイクに乗って阪急電車の駅に向かう途次、神戸市東灘区の三叉路で、軽自動車と衝突。右足2カ所を骨折、全治2カ月の重傷を負った。
デッドヒートはあっけなく幕切れになったのだ。
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>表を作ってみて最初に思ったのは、当時のペナントレースの日程が、かなり間が開いていること。
>4日、5日と間隔があいていることも珍しくない。これは、最初からダブルヘッダーが組まれているからだろう。
1965年といえば、東海道新幹線が開通した翌年にあたります。まだ新大阪以西には新幹線はない時代です。交通事情は今よりもはるかに悪かったはずです。
昔の選手がよく移動の困難さをネタにしているのを聞いたことがありますが、その名残が残っていたことも理由の1つでしょう。