「えー、昨年は“江川”と“梅川”という2本の川が世間を騒がせまして」79年初春、五代目桂文枝(当時小文枝)がマクラで振っていたのを覚えている。江川はあの「三菱銀行北畠支店人質事件」の凶悪犯と並び称されるような悪役になっていたのだ。
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【キャリア】

福島県いわき市出身。栃木県作新学院高のときに2回甲子園出場。阪急にドラフト1位指名されるも入団せず、法政大学。大学通算47勝。4年生時にクラウンライターからドラフト1位に指名されるも入団せず渡米、78年ドラフトの2日前に巨人と契約するも無効とされ、阪神にドラフト1位指名され入団。79年1月末、コミッショナー裁定により巨人にトレードされ移籍。投手として活躍。87年引退。解説者。

【タイトル、それに準ずる記録】

●最多勝2 ●最高勝率2 ●最優秀防御率1 ●最多奪三振3 ○最多完封3 ○最多完投2   

・防御率10傑入り8 ・WHIP1.00以下2 ・DIPS2.5以下0 規定回数以上9シーズン

最優秀選手1 ベストナイン2 オールスター出場8回

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【論評】

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高校時代の江川のすごさは、もはや伝説だった。球の速さが見ものになった投手には阪急の山口高がいるが、江川もその球を見るために甲子園に行く価値のある投手だった。ほとんどの高校生はかすりもしなかった。その江川が率いる作新学院が優勝できなかったこと自体がニュースだった。雨の甲子園で江川の作新が敗れたとき、私は雑踏にいたが、トランジスタラジオを手にした人からため息がもれたのを覚えている。
江川を破った広島商のエースは佃、捕手は達川、SSは金光。江川の球を受けていたのは小倉。江川とのかかわりで、記憶される選手が数多くいた。

白い法政大学のユニフォームの江川は、一回り大きくなったように見えた。マウンドでは打者を見下ろしているようだったし、打席での構えも素晴らしく良かった(3年秋には打率2位、2本塁打、10打点で打点王に輝いている)。大学時代、江川の球を受けていたのはロッテの正捕手となった袴田。キャプテンはあの広商の金光。

それからあとの、野球とは関係のないごたごたは、詳述する価値はないと思う。公平であるべき野球界のルールが曲げられ、最も不幸な形で決着したのだ。作新学院理事長の船田中(1895-1979)、コミッショナーの金子鋭(1900-82)など、プロ野球に一片の愛情も持っていないと思われる老人が暗躍したのも不快だった。

謹慎期間が明けた79年6月の阪神戦も良く覚えている。TV中継も異様な雰囲気だった。江川は負けるべくして負けた。あまり気持ちの良い試合ではなかった。



江川のプロでのピークは、82年だったと思う。この年は味方の援護が乏しく、19勝に終わったがWHIPは0.85。263.1回を投げて四球は実に24。

84年以後は、投球回数が200回を超えることがなかった。この年オールスターでパの打者を8連続三振に取るなど、球威は衰えていなかったが、スタミナの問題があったと思われる。もともと真っ向勝負を挑む投手だったが、一発を食うことも多くなった。

鍼灸師からクレームが来る不思議なコメントを残して、32歳で突然の引退。この経緯だけを見れば、江川は一体何がしたかったのか、という思いを抱かざるを得ないが、結局のところ、あの入団をめぐるトラブルが江川の精神を大きく揺さぶり、とても野球を楽しむ境遇ではなくしたのだろう。ポーカーフェースだが、一皮むけば人並みの、いや人並み以上に感じやすいハートを持っていたのではないか。不幸なことだ。


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