この人の偉大さをもう少し評価すべきではないかと思う。日本人として初めてMLBで野球をしただけでなく、その後も架け橋となり続けたのだ。

MLB時代の戦績
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【キャリア】

山梨県七保町出身。法政二高で選抜出場。63年南海入団。64年サンフランシスコ・ジャイアンツ=SFに野球留学。同年MLB昇格。66年復帰。投手として活躍。75年阪神移籍、76年日本ハム移籍。82年引退。日本ハム、ダイエー、西武コーチ、解説者。

【タイトル、それに準ずる記録】

MLB
・防御率10傑入り0 ・WHIP1.00以下1 ・DIPS2.5以下0 規定回数以上0シーズン

NPB
●最高勝率1
・防御率10傑入り2 ・WHIP1.00以下1 ・DIPS2.5以下0 規定回数以上5シーズン
オールスター出場1回

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【論評】

法政二高では柴田勲の1年後輩。南海入団後、鶴岡監督の指示でフレスノ・ジャイアンツに野球留学。
20歳の村上は、フレスノでチーム最多の49試合に投げた。主に救援だったが11勝を挙げた。この年のフレスノの日本人は村上一人だった。なお、翌年のフレスノにはボビー・ボンズが在籍している。

シーズン終盤にMLBに昇格し、初勝利を上げる。 サンフランシスコ・ジャイアンツは村上との契約を画策するが、南海との間に契約の問題が発生。
日米コミッショナーのやり取りで、65年1年のみMLBで投げることとなった。

この年のSFの先発陣は、ホアン・マリシャルが22勝、ボブ・ショーが16勝、ゲイロード・ペリーが8勝、先発救援兼任がボビー・ボリン14勝、ロン・ハーベル12勝、救援陣はフランク・リンジーが9勝21セーブ、村上は純然たる救援投手としては2番手だった。

打線には二人のウィリー(メイズ、マッコビー)にマッティ、ヘススのアル―兄弟、控えにオーランド・セぺダもいた。なかなかの顔ぶれだった。

村上はMLB残留も考えたようだが、日本マスコミのバッシングを受けたりもして南海に復帰。

南海では、“大リーグで通用した投手”ということで、大いに期待された。 しかしキャンプに登場した村上は、“豪快さを失い、シンカー気味のカーブ、スライダーのみで投手の生命とされるストレートは冴えず、技巧派の投手に変身していた(『南海ホークス40年史』”と酷評された。

林俊宏とともに20勝を期待された村上は、先発を降ろされ、救援投手となる。 しかしここから、村上は独自の投法に磨きをかけて、主戦級投手として活躍。

75年に阪神に移籍するも力を発揮できなかったが、76年にはトレードで日本ハムに移籍、ロングリリーフを専らとする投手として息の長い活躍をした。 この頃よく村上のマウンドを見かけたが、のそっとマウンドに上がって、打者をかわすような投球をしていた印象がある。



引退後、解説者やコーチなどを務めたが、大リーグ中継が始まるとMLBの解説者に起用された。 まるでアナウンサーのように穏やかで品のある日本語を話す。

野茂英雄、イチローという後輩たちの活躍を、的確に評していた。解説にしばしば聞き惚れたものだ。 MLBへの記念すべき最初の挑戦者は、理想的な先達だったと思う。

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