東京六大学史上初の完全試合男として、鳴り物入りで入団した投手。
【キャリア】
福岡県直方市出身。慶應高時代に選抜でベスト8。慶應大学では史上初の完全試合を達成。65年南海入団。投手として活躍。72年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・防御率10傑入り2 ・WHIP1.00以下1 ・DIPS2.5以下0 規定回数以上3シーズン
オールスター出場1回
【論評】
大学在学中から魔球パームボールの使い手として鳴らした。完全試合は、4年生の1964年5月17日の立教2回戦。(2人目は2000年の立教大の上重聡)。 対戦した立教は土井正三、谷木恭平、村上公康などのちにプロで活躍した選手も名を連ねており、手ごわい相手だった。渡辺はわずか82球でパーフェクトを成し遂げている(7奪三振)。
65年の入団は契約金5000万円と言われ、ドラフト制導入以前としては最高額だったといわれる。激しい争奪戦があったといわれる。
スライダー、カーブ、そしてパームと変化球主体の投球。コントロールもよく、完成された投手という印象だった。
2年目には防御率3位、オールスターにも出場し、エース級にのし上がった。
この年の巨人との日本シリーズでは第一戦先発(0.2回自責点2●)、第二戦先発(9回完投自責点2○)、中二日の第三戦先発(7回自責点3●)、第五戦先発(5回自責点0)と信じられないような使われ方をした。杉浦が救援に回り、皆川、村上らの調子が悪かったからだが、酷使というべきだろう。
翌年も15勝を挙げたが、2年で480回という登板過多がたたったか、以後は故障がちとなった。
被本塁打も増えて、二線級の扱いとなり、30歳で引退。故郷直方市の家業、渡辺造機を継ぎ、経営者となった。
南海が全盛期を過ぎ、退潮期に入る時期に入団しただけに、負け数も多く、ややさびしい成績で終わった感がある。
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福岡県から神奈川県の慶應義塾高等学校に進学したのは、当時の八幡製鉄監督が母校・慶應義塾大学強化のために青田刈りしたためとのこと。
また、静岡高校・早稲田大学・プリンスホテル・読売ジャイアンツで選手・監督・背広組として活躍した石山建一氏いわく、関東地区の高校で歴代3大怪物は「渡辺泰輔・江川卓・松坂大輔」でした。
石山氏が回想するには、「高校生が大人の剛速球を投げていた」そうです。
そういえば亡くなった青田昇氏が阪急ヘッドコーチ時代、ダリル・スペンサーの「投手の癖見抜き」で、阪急打線が苦手だった渡辺を一転カモの投手にしてしまったことが著書にあったのを覚えています。