南海のエースと言えば、杉浦忠ということになろう。西鉄の稲尾和久と同様、太く短い選手生活だった。
⇒杉浦忠、1959年の歴史的快投1
⇒杉浦忠、1959年の歴史的快投2
【キャリア】
愛知県挙母町出身。挙母高校から立教大学へ。東京六大学通算36勝。1958年南海入団。投手として活躍。70年引退、南海、近鉄コーチ。86年~89年南海、ダイエー監督。解説者。1995年殿堂入り。2001年没。
【タイトル、それに準ずる記録】
●最多勝1、●最高勝率1、●最優秀防御率1 ●最多奪三振2 ○最多完投1 ○最多完封2 ・防御率10傑入り5・WHIP1.00以下3 ・DIPS2.5以下1 規定投球回数以上6シーズン ・新人王、MVP1、ベストナイン1 、最優秀投手1、オールスター出場6回
【論評】
大学時代にサイドスローに転向してから抜群の投球を見せるようになった。
フォームは、足を高く上げてから、体をぐっと沈めてばねを利かせている。ただ、ボールを持つ手はそれほど下がらず、サイドスローと言っても良い。フォロースルーで右手をきれいに伸ばすところなど、山田久志とよく似ているが、腕は山田ほど下がっていない。
キレ味のある速球を武器にしたが、のちにはシンカーを多投するようになった。
先発一本で活躍した投手のように思われがちだが、通算では救援登板の方が多い。
全盛期でも先発、救援を掛け持ちしていた。
1959年は、38勝4敗という空前の成績を残したが、春先までは先発ではよく打たれ、救援登板をするうちに調子が上がっていった。
この59年と翌60年がピークと言ってよく、その後はエースだったが抜群という数字は残せなかった。2歳下の稲尾和久とよく似たSTATSだ。
65年以降は、リリーフ投手として命脈を保った。現役生活は13年。当時としては短いとは言えないが、200勝に到達できなかった。
引退後は近鉄、南海コーチ、そして南海の監督となった。最も弱い時代であり、満足な成績は残せなかった。
1988年、福岡移転が決まった最終試合で「行って参ります」と満員の客席に向かってあいさつした声が、今も耳に残っている。
2001年に病を得て死去。穏やかな紳士であり、中部地方出身だが上品な関西弁を話していた。 美しい野球人だったという印象が残っている。
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これくらい勝ちっぷりが良いと、各年の経過をちょっと追ってみたくなります。
1年目の前半戦は20勝3敗の破竹の快進撃。後半戦は疲れが出て負けが込み西鉄に大逆転優勝を許す。
2年目の前半戦は13勝3敗、前年の二の舞を踏みたくないとそこから更にピッチを上げて後半戦は25勝1敗。日本シリーズでも宿敵の巨人相手に4連投4連勝で南海は初の日本一に。この辺りはまるでドラマや小説の世界です。
3年目、前年の疲労が心配され味方打線もやや低調さが目立ちチームは2位に終わるも、杉浦は中盤から調子を上げて最終的に31勝まで到達。二年続きのハイレベルな内容は驚異的です。
4年目、球威の低下がささやかれ始めて、20勝を挙げた直後の9月前半に腕の血行障害が発覚。杉浦が戦線離脱した南海は、その後東映に急追され大苦戦の末優勝したものの日本シリーズでは敗退。
5年目、序盤戦は4勝10敗と最悪の出足、何とか盛り返すも14勝15敗とキャリア初の負け越し。血行障害の腕の状態に左右されたのか、これ以降は連勝と連敗を繰り返すパターンが目立ちます。
30歳になった8年目のシーズン終了後、投手コーチに就任。現役は引退しようとしたが投手不足のチーム状況の為、翌年すぐに現役復帰。
以降5年間は投手として余生を過ごした感がありますね。