草創期の南海で、8月から11月までのわずか3カ月だけ活躍し、戦火に散った外野手。初代3番打者。
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【キャリア】
長野県出身。松本商業から立教大学を経て1938年創設時の南海に入団。外野手として活躍。応召し戦死。

【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上1シーズン

【論評】
旧制松本商業では中島治康の3年後輩。中島がエースで優勝した1928年夏の甲子園にも出場している。
秋季リーグの40試合で39試合左翼を守り、3番6試合、4番6試合、5番12試合、6番15試合。中心打者として活躍した。
野球体育記念博物館の戦没野球人の中に記録があるが、没年、戦没場所などは分からない。

syokuyakyu様

中村金次と共に鶴岡入団前の南海の主力打者ですがプロでは昭和13年秋季の40試合の出場だけですのでほとんど資料は残っていないと言ってよいでしょう。

松本商業時代の記述は大和球士著「「真説 日本野球史」昭和篇その一に甲子園準決勝の高松中学戦で「高野の中前打に還り(すなわち高野がタイムリーを放った)中村恒の左翼二塁打に高野も還り、計2点」と書かれています。

「甲子園からの手紙 松商野球の源流」には更に詳しく書かれており、広陵中学戦では八番ライトで先発出場、愛知商業戦でも八番で出場しています。
上記の高松中学戦は「そして八番高野に打順が回ってきた。高野はこの大会でまだ安打がなかった。何とか走者を返したい。その一念が中堅前安打となり1点を加えた。」と書かれています。

なお、高野百介の名前が刻まれているのは「鎮魂の碑」です。「鎮魂の碑」はプロ野球在籍選手、「戦没野球人モニュメント」はアマチュア野球選手の名前が刻まれています。但し、何故かプロに在籍した大宮清、渡辺敏夫、木村孝平の3人だけは、「戦没野球人モニュメント」の方に名前が刻まれています。

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