日本にプロ野球が誕生した時にすでに32歳だった。山本栄一郎に次ぐ長老として1塁ベースを守った。
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【キャリア】

函館商業学校から26年函館大洋野球倶楽部(函館オーシャン)。日本代表として31年、34年の日米野球に参加。ベーブルースらと対戦。36年巨人入団。43年引退。函館オーシャン監督などを歴任。1985年没。

【タイトル、それに準ずる記録】

・打撃10傑入り0 ・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上3シーズン

【論評】

函館オーシャンは現在も続くアマチュア野球の名門中の名門。沢村栄治の球を受けた久慈次郎はじめ、プロ野球ができるまでの名選手を数多く輩出した。永沢はこのオーシャンで5番一塁、ちなみに三塁は函館商業の後輩でもあるのちの喜劇俳優益田喜頓。

プロ入りした時はすでに32歳。以後も渋い活躍を続けたが、川上哲治の台頭とともに控え、代打に回った。

引退時にはすでに39歳。戦前には珍しく選手生活を全うした選手と言えよう。


syokuyakyu様

永沢は藤本監督に守備を高く評価されていたようです。

昭和14年8月6日の金鯱7回戦試合途中に吉原正喜捕手が突き指してキャッチャーは楠安夫に代わりました。翌7日のライオン7回戦で先発マスクを被ったのは永沢富士雄でした。巨人の控えキャッチャーには田代須恵雄がいましたし、前日吉原と交代したのはキャッチャーもできる楠安夫投手です。

吉原の突き指は意外と長引き3試合永沢がマスクを被ることとなりました。但し、7日のライオン戦では7回に2連続パスボールを犯して失点につながっています。12日のセネタース7回戦でも捕逸を1個記録しましたが、3試合目で慣れてきたのか13日のセネタース8回戦ではパスボール無しでした。

藤本監督が永沢のキャッチングを高く評価していた証左でしょう。

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