伝説の名捕手。数字的にも見るべきものがある。
【キャリア】
熊本県出身。熊本工業から甲子園に3度出場、2度準優勝。川上哲治とバッテリーを組む。捕手として巨人に入団。1941年応召、44年10月10日戦死。1978年殿堂入り。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り1 ・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上5シーズン
【論評】
巨人の正捕手は初代が内堀保、二代目がこの吉原だった。体は決して大きくなかったが、強肩強打で鳴らし、足も速かった。在籍中はほぼ一人でマスクをかぶっており、チームの信頼感の高さがうかがえる。また、40年の30盗塁は捕手としては驚異的である。
強肩強打、そしてハッスルプレーを伝えるエピソードは数多いが、いわばすべて伝説の部類になってしまう。
STATSを見る限り、この選手は極めて選球眼が良い。またこの時期としては比較的打率も良い。戦後までプレーしていれば、下位打線で侮りがたい存在になっただろう。
吉原の応召後、巨人のホームプレートは再び内堀が守ることになった。
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【キャリア】
熊本県出身。熊本工業から甲子園に3度出場、2度準優勝。川上哲治とバッテリーを組む。捕手として巨人に入団。1941年応召、44年10月10日戦死。1978年殿堂入り。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り1 ・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上5シーズン
【論評】
巨人の正捕手は初代が内堀保、二代目がこの吉原だった。体は決して大きくなかったが、強肩強打で鳴らし、足も速かった。在籍中はほぼ一人でマスクをかぶっており、チームの信頼感の高さがうかがえる。また、40年の30盗塁は捕手としては驚異的である。
強肩強打、そしてハッスルプレーを伝えるエピソードは数多いが、いわばすべて伝説の部類になってしまう。
STATSを見る限り、この選手は極めて選球眼が良い。またこの時期としては比較的打率も良い。戦後までプレーしていれば、下位打線で侮りがたい存在になっただろう。
吉原の応召後、巨人のホームプレートは再び内堀が守ることになった。
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大昔 TV番組”巨人の星”のあるエピソードを見ていたら、当時甲子園で投手として活躍したものの、プロ入り後に成績を残せず悩んでいた川上投手に対し、ある夜吉原選手が声をかけ、突然自分の上半身の裸体を見せる、という回があったように記憶しています。
このシーンで、吉原捕手は当時の大エース;スタルヒン投手の剛速球を受け続けるあまり、上半身あちこちに傷やあざができていたのに、それにいっさいグチをこぼさず、”俺もがんばってるんだ、お前もがんばれ!”と川上選手を励ました、という内容だったと思います。
真実のほどはさだかではありませんが、同校同学年出身である2人の強い絆を示した印象に残るエピソードでした。
もうひとつ面白いエピソードとして、戦争の影響で1941年シーズンから野球用語をすべて日本語化するという規則が導入された際、シーズン前のチームミーティングで、
”昨年(1940年)までキャッチャーをやっていた吉原です。でも今年からは新たに捕手をやることになりました。”
と言い放って爆笑を起こしたという話があったと思います。