本格的な外国人選手の走りの一人。NPBに“スピード”の概念を持ち込んだ選手と言われる。傑出した成績を残した。
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【キャリア】

ハワイ出身の日系2世。マウイ島では屈指のアスリートとして知られ、終戦後アメフトのサンフランシスコ49ersに入団。47年は12試合に出場。しかし負傷のため断念し、野球に転向。50年、前年に日本に遠征をしたサンフランシスコ・シールズ(AAA)傘下のソルトレイクでリーグ5位(125打数以上)の.335をマーク。これが巨人スカウトの目に留まって51年シーズン途中に巨人に入団。たちまち巨人の主力打者となり10年に渡って活躍した。その後中日に移籍し、2年で引退。中日、東京などのコーチを経て中日監督に就任。巨人の10連覇を阻止、以後も南海、巨人、西武、日本ハムのコーチを歴任し、88年に引退した。2011年死去。

【タイトル、それに準ずる記録】

●首位打者3 ○最多安打3 ○最多得点3 ○最多二塁打2 

・打撃10傑入り8 ・OPS.900以上2 ・RC100以上1 規定打席以上9シーズン

MVP1 ベストナイン7 オールスター出場8

【論評】

STATSに最初にこだわったNPBの選手は、恐らく川上哲治だと思うが、この川上が最も脅威に感じた選手がウォーリー与那嶺だった。与那嶺入団後の2人の打率争いを見てみる。

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5歳年長の「打撃の神様」川上が、与那嶺と死闘を演じていたことが分かる。与那嶺は最初の6シーズンで132盗塁したが、川上もこの期間110盗塁している。老骨に鞭うって走ったのは与那嶺への対抗心だったかもしれない。

川上は引退後60年に巨人監督に就任するが、与那嶺を戦力外とした。与那嶺は中日に移籍を余儀なくされた。以後、二人の確執が続いたといわれる。

主に1番を打ったが、いわゆる「強打の1番打者」の先駆者でもあったろう。二塁打の多い中距離打者。足は決して抜群ではなかったが、闘志で次の塁を奪う選手だった。

与那嶺は単に安打を打って走っただけではない。ホームスチール11回、妨害出塁15回。野球にはこんな手段もあるのだ、ということを見せつけた。

与那嶺は日系人であったため、戦争中アメリカでのプロスポーツに挑戦する機会を奪われた。戦後、本格的にプロ野球を始めたときはすでに25歳になっていた。もし、戦争がなければ、日系初の本格的なプロスポーツ選手になっていたかもしれない。

中日監督として巨人のV10を阻止したのも印象に残る。引退後も川上哲治と死闘を繰り広げたのだ。

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94年に殿堂入り。外国人選手では若林忠志ト2人だけ。恐らくは、日本のメディアには「外国人」という意識がなかったと思う。ウォーリー与那嶺はいろんな意味で特別の選手だと言えよう。

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