王貞治を超える打者は、今後も出てこないのではないかと思う。破壊力とその持続力、そして人格の高潔さ。いずれも超人的である。
⇒王貞治 守備記録

⇒高校時代の王貞治
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【キャリア】

東京都墨田区出身。中国大陸浙江省出身で対岸の中華民国籍の父と日本人の母の間に生まれる。余談ながら生母登美さんは昨年、109歳で死去。男女の双子だったが、妹は1歳3カ月で死亡。本所中学時代に荒川博に見いだされ、早稲田実業時代はエース、4番で甲子園を沸かせる。59年巨人に入団。投手だったが打者に転向。80年引退。巨人助監督を経て監督(84~88)、解説者、ダイエー、ソフトバンク監督(95~08)を経てソフトバンク球団会長。

【タイトル、それに準ずる記録】

◎三冠王2 ●首位打者5 ●本塁打王15 ●打点王13 ○最多安打3 ○最多二塁打1 ○最多四球18 ○最多得点15 

・打撃10傑入り17 ・OPS.900以上18 ・RC100以上17 規定打席以上21シーズン

MVP9 ベストナイン18 オールスター出場20 ゴールドグラブ9

【論評】

60年代後半、つまり昭和40年代前半は、多くのものが止まって見えた時代だ。政治は自民党、総理大臣は佐藤栄作、大相撲の優勝は大鵬幸喜、将棋のタイトルは大山康晴、そして野球は巨人、本塁打王は王貞治。他者を寄せ付けない鉄壁のような組織や人物が、やや面白くない表情で我々の前に立ちふさがっていた、という記憶がある。

王貞治は、一本足打法にした62年以降、引退する80年まで19年に渡って30本塁打以上を打った。ゾーンに投手の球が来ると、まるで機械のように確実にスタンドに放り込んだ。そのフォームは、誰にも似ていなかった。そしてだれも真似ができなかった。ある時期、日本ハムの渋谷通がそっくりのフォームで打席に立ったが、成績は程遠かった。片平晋作、門田博光などが“一本足”と評されたが、全くの別物だった。節くれだった素手でがっしとバットを握り、軽く首をかしげながら打席に立つ。外野席からでもはっきりとその雄姿は区別できた。

守備面でもレベルが高かった。ミットさばきも巧みだったが、それ以上に打球が飛ぶ位置にいつもいる、という印象があった。試合を読む能力に優れていたのだろう。肩も決して弱くはなかった。ただ、筋肉の塊だったので、走力はなかった。硬くて重い鋼鉄の体、それはしなやかで軽い長嶋茂雄と好対照だった。

最大のライバル、江夏豊とは258打数74安打20本塁打57四死球57三振.287。三振と四死球が拮抗しているところに、厳しい勝負の痕跡を見る。

1977年は50本塁打124打点0.324でありながら、三振は37。投手は打つ手がなかったことだろう。37歳の時、まさに円熟の境地である。

『文藝春秋』2010年5月号に王貞治の古希インタビューが掲載された。これによると、長嶋茂雄とは一度も二人で酒を酌み交わしたことがないという。両雄は距離を置いていたのだ。また、国籍問題では少なからずつらい思いをしたようだが、未だに日本国籍は取得していない。しかし、王貞治は「国籍で苦労したことはほとんどない、恵まれていた」と語っている。胃がんによる胃の全的手術を受けているが、これはストレスではなく暴飲暴食のためだとしている。インタビューを読んで思うのは、清濁合わせ呑む大陸的なスケールの大きさである。

監督としての王貞治の真価が発揮されたのは、九州に移ってからだ。「三振王」と揶揄された打撃を誰にも追いつけないレベルまで磨き上げたのと同様、テールエンダーだったチームを常勝チームに育て上げた。根本陸夫のプロデュースはあったにせよ、この粘り強さ、やり抜く勁さこそが、王貞治の身上だ。

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福岡にプロ野球を再び植え付けた功績も非常に大きい。

その当時はなんとも思わなかったが「王貞治と長嶋茂雄のプレーを実際に見た」ということは、歴史の現場に居合わせたのだ、ということになると思う。

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