大沢親分が南海で野村克也や広瀬叔功と打線を組んでいたことを、どれだけの人が知っているだろう。

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【キャリア】

神奈川県藤沢市出身。平塚工業、神奈川商工から立教大学を経て56年に南海に入団。外野手として活躍。64年ロッテ移籍。同年引退。ロッテコーチ、監督(71~72)年。日本ハム監督(76-84、93-94)。日本ハム常務。解説者。2010年死去。

【タイトル、それに準ずる記録】

・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
オールスター出場1回

【論評】

兄は中日で一塁手として長く活躍した大沢清。弟の大沢紀三男も中日の投手。高校時代に問題を起し、転校したこともあって2年遅れで立教に入学。長嶋茂雄、杉浦忠の2年先輩になった。南海入団後、鶴岡監督の命で長嶋茂雄を勧誘したという。

その後、大沢は9年間南海の主力選手として活躍したが、穴吹義雄や広瀬叔功など強打の外野手がいたこともあって、出場機会は減っていった。意外なことに規定打席には一度も到達していない。打順は7、8番が多かった。しかし、決して存在感が薄かったわけではなく、鉄砲肩で外野の守りの要として重きをなした。外野守備に頭脳を持ちこんだ嚆矢とされる。また、人望が厚く、早くから指導者の資質があるとされていた。
監督としては13年間で優勝は81年日本ハムでの1回だけだが、人を育てる名人とされ、むしろフロントに入ってからの方が手腕を発揮したようだ。

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例の日曜の名物番組。張本のあまり品性の良くない「喝!」「あっぱれ!」を大沢はうまく中和する役割を果たしていたと思う。ちなみに大沢は張本が日ハムから巨人にトレードされた翌年に日ハム監督に就任している。

湘南生れ。良くも悪くも都会人らしい竹を割ったような性格。選手晩年は親分こと鶴岡一人と対立したようだ。北陸人の重苦しさと京都人の底意地の悪さを併せ持つ野村克也とは、9年間同僚だったが、お互いをどう思っていたのか気になるところではある。

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