南海の「影の男」たちの何人かのSTATSも紹介しておきたい。宇佐美徹也さんが紹介してすっかり有名になった稀代の「当て馬」選手である。
【キャリア】
大分県出身。大分商業を経て58年南海に入団。捕手として活躍。66年西鉄移籍、68年南海復帰。コーチ兼任。71年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
【論評】
65年に西鉄に移籍するまでは野村克也の控えだったが、68年に南海に復帰してからは、「当て馬」での出場だけとなった。試合が始まると代打が立つ。本人はベンチ横で投手の球を受けるだけ。出場419試合のうち守備に就いたのは67試合、代打が120試合、残る237試合が当て馬だった。
当て馬戦法は、鶴岡一人、野村克也両監督の常とう戦術だった。渡会はその戦術に貢献したと言えよう。
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【キャリア】
大分県出身。大分商業を経て58年南海に入団。捕手として活躍。66年西鉄移籍、68年南海復帰。コーチ兼任。71年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
【論評】
65年に西鉄に移籍するまでは野村克也の控えだったが、68年に南海に復帰してからは、「当て馬」での出場だけとなった。試合が始まると代打が立つ。本人はベンチ横で投手の球を受けるだけ。出場419試合のうち守備に就いたのは67試合、代打が120試合、残る237試合が当て馬だった。
当て馬戦法は、鶴岡一人、野村克也両監督の常とう戦術だった。渡会はその戦術に貢献したと言えよう。
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宇佐美徹也の著書によると史上初のアテ馬はライオンの日野弘美のようです。
昭和13年6月18日のライオンのスターティングラインナップには五番に日野弘美の名前が見られますが第一打席で水谷則一が代打に起用されています。
相手のセネタースの先発が右の浅岡三郎か左の金子裕か読みづらい状況であったため小西得郎監督は右の浅岡なら左の水谷則一、左の金子なら右の煤孫伝を使いたかったのではないかと推測しています。
セネタースの先発は右の浅岡三郎だったため左の水谷則一が代打に起用さてました。ライオンはアテ馬作戦が功を奏して初回に大量6点をあげ15対9で快勝しています。
アテ馬の語源は読んで字の如く競馬用語からきています。繁殖牝馬の発情状況を確認することを使命とする「試情馬」のことを言います。1988年のオークスを制したコスモドリームは「アテ馬」ブゼンダイオーの仔でした。