今も慕う人が多い野球人。渋い選手であり、渋い指導者だった、
049-Ikuo Shimano





【キャリア】

栃木県宇都宮市出身、作新学院、明電舎を経て63年中日入団。外野手として活躍。68年南海移籍、76年阪神移籍。80年引退。阪神、中日コーチ、二軍監督、解説者。2007年死去。

【タイトル、それに準ずる記録】

・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上2シーズン
ゴールドグラブ2回

【論評】

打撃が非力だったために、中日では江藤慎一、中暁夫らの控えだった。堀込基明とのトレードで南海に来てからも同様だったが、73年には広瀬叔功に代わって1番を打ち、61盗塁。成功率も高かった。

外野手としては守備範囲が広く、動作も機敏だった。

阪神移籍後は、守備固め、代走が多かった。引退した1980年は35試合に出場したが、代走、守備固めだけで出場し、打席に立っていないが15得点している。
オールスターには選出されていない。ちょうど出場試合数の半分の安打を打っている。

引退後は守備走塁コーチ、総合コーチ、二軍コーチとなるが、首脳陣、選手双方から絶大な人気を得ていた。

82年横浜球場での審判暴行事件で阪神コーチの島野は、同僚の柴田猛(彼も南海出身)とともに無期限謹慎処分となる。

関西では2コーチへの擁護論が大きかった。
この少し前に阪神の試合中に打球が塁審に当たって方向が変わり、安打になったことがあった。「審判は石と同じだから安打」という理屈だが、月亭八方は高座で「審判が石と同じなんやったら、どついてもかめへんはずや」といって笑いを取っていた。一種の社会問題化していたのだ。

謹慎が解けてからは解説者を経て現場復帰し、名コーチ、参謀として活躍したが、胃がんで死去。63歳。その死を惜しむ人が非常に多かったのが印象的だった。

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