実力以上に、その言動や生き方が共感を呼んだ、名物選手。
【キャリア】
福岡県小倉市出身、戸畑商業から76年近鉄にドラフト5位で入団。投手から外野手に転向。82年解雇され翌年南海に入団。外野手、DHとして活躍。95年ダイエーを自由契約となり近鉄にテスト入団。99年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り3・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上7シーズン
ゴールドグラブ1 オールスター出場5
【論評】
高校1年で留年したため4年かけて卒業。近鉄入団後、打者に転向して二軍では数字を残すも上に上げられなかった。要するに、組織になじめない人柄だったのだろう。
南海の二軍監督だった穴吹義雄に拾われてから、選手としての花が開いた。
話はそれるが、穴吹義雄は監督としては目立った成績を残していないが、多くの野球選手を見出して開花させている。名伯楽ではなかったか。
非常に人気はあったが、南海時代は左投手が打てなかった。投手出身らしく肩は良かったが、足が速いとは言えず、使いやすい選手ではなかっただろう。
ただ、大勝負に強く、その容貌も相まって、投手への威圧感はあった。
「ドラ」の愛称で、登場すれば球場がわいた。福岡に球団が移転した年は、門田博光が関西に残ったために、チームの中心打者だった。地元出身だけに、最大のスターとなった。
95年に負傷すると成績が急落、ダイエーを自由契約に。しかし引退せず近鉄に復帰。このあたりから人情話がついて回るようになった。
99年に近鉄を戦力外通告された時も、現役を続行しようとした。今、何人かいる「やめない中年選手」の走りだったかもしれない。
今は福岡を地場とするタレントである。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
↓
【キャリア】
福岡県小倉市出身、戸畑商業から76年近鉄にドラフト5位で入団。投手から外野手に転向。82年解雇され翌年南海に入団。外野手、DHとして活躍。95年ダイエーを自由契約となり近鉄にテスト入団。99年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り3・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上7シーズン
ゴールドグラブ1 オールスター出場5
【論評】
高校1年で留年したため4年かけて卒業。近鉄入団後、打者に転向して二軍では数字を残すも上に上げられなかった。要するに、組織になじめない人柄だったのだろう。
南海の二軍監督だった穴吹義雄に拾われてから、選手としての花が開いた。
話はそれるが、穴吹義雄は監督としては目立った成績を残していないが、多くの野球選手を見出して開花させている。名伯楽ではなかったか。
非常に人気はあったが、南海時代は左投手が打てなかった。投手出身らしく肩は良かったが、足が速いとは言えず、使いやすい選手ではなかっただろう。
ただ、大勝負に強く、その容貌も相まって、投手への威圧感はあった。
「ドラ」の愛称で、登場すれば球場がわいた。福岡に球団が移転した年は、門田博光が関西に残ったために、チームの中心打者だった。地元出身だけに、最大のスターとなった。
95年に負傷すると成績が急落、ダイエーを自由契約に。しかし引退せず近鉄に復帰。このあたりから人情話がついて回るようになった。
99年に近鉄を戦力外通告された時も、現役を続行しようとした。今、何人かいる「やめない中年選手」の走りだったかもしれない。
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>投手出身らしく肩は良かったが、足が速いとは言えず、使いやすい選手ではなかっただろう。
仄聞したところによれば、スピードもさることながら、筋力もおよそプロ野球選手のレベルではなかったそうですね。その筋力のなさを技術で補ってこれだけの成績を挙げたのですから、ある意味凄いと言えるのではないでしょうか。
サッカーの「カズ」こと三浦知良が全盛期の頃、それに対抗して「カズ山本」の登録名でプレーしたこともありましたね。
最後の試合はやや花を持たされた感はありましたが、あの広い福岡ドームでの一発で両チームのファンから大声援を受けていたことをよく憶えています。