兄は有名なリー・メイだが、弟もオールスター2度の大物だった。その片鱗は見せた。
【キャリア】
アラバマ州バーミンガム出身、パーカー高校から66年ドラフト1順目でシカゴ・ホワイトソックス=CWS入団。68年MLB昇格。76年ニューヨーク・ヤンキースNYY、77年カリフォルニア・エンゼルス移籍。78年南海入団。81年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
MLB
・打撃10傑入り2・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上6シーズン
オールスター出場2
NPB
・打撃10傑入り2・OPS.900以上2 ・RC100以上0 規定打席以上3シーズン
【論評】
全米18番目での入団。ちなみにこの年の2番目はレジー・ジャクソン、15番目にリッチー・ヘブナー、60番目にスティーブ・ガービー。
錚々たる顔ぶれの中でも出世は早く、68年にはMLBに昇格し、69年には新人王投票の3位に。5歳上の兄、リー・メイは、シンシナティ・レッズ、ボルチモア・オリオールズなどで活躍し、打点王に輝いているが、長打では劣るものの、打撃センスでは弟のリーの方が良いとの評価もあった。
バットコントロールが抜群。ミートが巧みだった。69年に右手の親指を負傷するも、以後も成績は下がらなかった。
メイがデビューした当時のアリーグは投高打低で、3割打者が少なかった。.280をコンスタントにキープできたメイの評価は高かったが、次第に打者が優位になっていく中で、反対に長打が減っていった。
まだ30歳でカリフォルニア・エンゼルスを自由契約となり南海へ。
78年は、ポスト野村の主軸を門田博光と組んだ。この年は70年にシンシナティ・レッズで盗塁王になったボビー・トーランもやってきた。MLB元年ともいうべき年だったが、この年に身近な大阪球場でこんな大物を見ることが出来るとは、と興奮したのを覚えている。二人とも地下鉄御堂筋線で大阪球場に通っており、よく地下街で姿を見かけた。
翌年、門田が負傷すると不動の4番になり、弱い南海の中心打者となった。信頼感は高かったが、81年負傷して欠場が多くなり、解雇された。
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アラバマ州バーミンガム出身、パーカー高校から66年ドラフト1順目でシカゴ・ホワイトソックス=CWS入団。68年MLB昇格。76年ニューヨーク・ヤンキースNYY、77年カリフォルニア・エンゼルス移籍。78年南海入団。81年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
MLB
・打撃10傑入り2・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上6シーズン
オールスター出場2
NPB
・打撃10傑入り2・OPS.900以上2 ・RC100以上0 規定打席以上3シーズン
【論評】
全米18番目での入団。ちなみにこの年の2番目はレジー・ジャクソン、15番目にリッチー・ヘブナー、60番目にスティーブ・ガービー。
錚々たる顔ぶれの中でも出世は早く、68年にはMLBに昇格し、69年には新人王投票の3位に。5歳上の兄、リー・メイは、シンシナティ・レッズ、ボルチモア・オリオールズなどで活躍し、打点王に輝いているが、長打では劣るものの、打撃センスでは弟のリーの方が良いとの評価もあった。
バットコントロールが抜群。ミートが巧みだった。69年に右手の親指を負傷するも、以後も成績は下がらなかった。
メイがデビューした当時のアリーグは投高打低で、3割打者が少なかった。.280をコンスタントにキープできたメイの評価は高かったが、次第に打者が優位になっていく中で、反対に長打が減っていった。
まだ30歳でカリフォルニア・エンゼルスを自由契約となり南海へ。
78年は、ポスト野村の主軸を門田博光と組んだ。この年は70年にシンシナティ・レッズで盗塁王になったボビー・トーランもやってきた。MLB元年ともいうべき年だったが、この年に身近な大阪球場でこんな大物を見ることが出来るとは、と興奮したのを覚えている。二人とも地下鉄御堂筋線で大阪球場に通っており、よく地下街で姿を見かけた。
翌年、門田が負傷すると不動の4番になり、弱い南海の中心打者となった。信頼感は高かったが、81年負傷して欠場が多くなり、解雇された。
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案の定、空振りばっかしていて平凡なイメージしか無い。
広瀬監督時代の南海のクリーンナップはこのメイの前後に門田博はいたけど、他が片平、王天上、小田9とか。この面子で何点取れるかたかが知れてるわ。ホントに。
下位打線は安パイ揃いだったし。