日本プロ野球は、澤村がいなければここまで発展しなかっただろう。日本人にとってプロ野球の原風景とも言うべき存在だ。
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【キャリア】

三重県伊勢市出身。京都商業時代に春夏3度甲子園出場。中退して34年読売巨人軍の草創に参加。38年応召。40年復帰。41年応召。43年復帰。44年応召、戦死。59年殿堂入り。

【タイトル、それに準ずる記録】

●最多勝利2 ●最優秀防御率1 ●最高勝率1 ●最多奪三振2 ○最多完封2 

・防御率10傑入り3 ・WHIP1.00以下1 ・DIPS2.5以下0 規定回数以上4シーズン

MVP1 ノーヒットノーラン3回

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【論評】

仮に野球を十分に理解できる年齢を10歳からとすると、澤村の雄姿を目に焼き付けることができた世代は今、87歳以上ということになる。当時は、ラジオはあったもののTVはなく、新聞でのスポーツ報道も情報量はわずかだったから、同時代であっても澤村のすごさを直接知る世代は、限られていたというべきだろう。

しかし、澤村榮治は創設以来76年になるNPBで今も最高の投手であり、偶像として神聖視されている。なぜなのか?

その原点は、以下の試合ではなかったかと思われる。

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後に殿堂入りした5人の大打者を中核としたMLB選抜に対し澤村が快投したのだ。ベーブ・ルースは全盛期を過ぎ翌年には移籍するのだが、絶頂期にあったゲーリッグ、フォックス、ゲーリンジャー、アベリルという面々と対戦し、5安打されたものの1失点に抑えた。決勝点は7回、ゲーリッグの本塁打だったが、最初は物見遊山半分だった選手たちも回が深まるとともに、眼の色が変わったという。

この試合は、新聞紙上で大々的に報道された。ベーブ・ルースはアメリカ文化の象徴的存在だったから、わずか17歳の一青年がルース=アメリカを押さえたという快事は大反響を呼んだ。インパクトは、2009年のWBCでの日本の優勝を上回っていたのではないか。1934年と言えば、すでにムソリーニ、ヒトラーが台頭し、日本と欧米との対立が顕在化しつつあった時代だ。国際的な孤立が始まろうという時期。漠然とした不安を感じる国民に、大きな自信を与えた出来事だっただろう(この年、鳩山一郎、つまり鳩山由紀夫元総理の祖父が文部大臣を辞任している)

さて、澤村は草創期のプロ野球で無敵の活躍を続ける。しかし、その全盛期はわずか2年。1度目の応召で肩に致命的な故障を抱えた澤村は、復帰後は平凡な成績に終始した。そして43年シーズン終了後には巨人を解雇されているのだ。3度目の応召がなくても、澤村はもはや活躍できなかったのだ。

戦争の記憶とともに澤村は悲劇の英雄として、神聖化されるようになった。

NPBにおける澤村榮治は、MLBのベーブ・ルースに匹敵する。戦前の野球は、澤村榮治との関係で語られてきた。景浦は澤村のライバル、久慈は女房役、川上は後継者(二人の関係は俳句の子規と虚子の関係を想起させる)。

日本の野球ファンは、常に澤村榮治の再来を渇望してきた。古くは尾崎行雄、堀内恒夫、近くは斎藤佑樹まで。あるいはその変異系のダルビッシュ有。そしてフィクションの世界の星飛雄馬まで。あどけない白皙の少年=School Boyが腕も折れよとばかりに力投し、その快投でチームを救うストーリーは、絶えることなく再生産されてきた。日本人は、野球とはそういうものだと思ってきたのだ。

日本の野球は、まだ澤村榮治を乗り越える存在を得ていないと言っても良いかもしれない。

syokuyakyu様

沢村のスピードについては全盛期にセカンドを守っていた三原脩と全盛期に対戦した坪内道則の著書における記述が一番参考になるのではないでしょうか。

三原の著書「勝つ 戦いにおける“ツキ”と“ヨミ”の研究」の記述
「わたしはちゅうちょなく『沢村がNo1』と答える。金田も速かったし、江夏の絶好調のときの速球も一流だ。わたしがこれほど沢村を高く評価するのは、伝説的人物に対する例の美化作用によるものではない。ほんとうに沢村の球は、速かったのである。」

坪内の著書「風雪の中の野球半世記」の記述
「感じでものをいう以外にはないのだが、5人を挙げるとしたらまず国鉄時代の金田正一投手がトップだろう。次いで中日・小松辰夫投手、入団当時の同・鈴木孝政投手、西鉄の稲尾和久投手がこれに続き、伝説中の巨人・沢村投手は5番目あたりではないかと思っている。」

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